「日独伊親善図画インタビュー映像制作プロジェクト」京都府綾部市綾部小学校編
実施日:2020年11月17,18日
助成:東京藝大「I LOVE YOU」プロジェクト
「日独伊親善図画」に出会ってから継続して作者を探す活動を行っている。それは研究の為である一方で、Eva Friedrich Thomaさんの「作者を探してほしい」という一言を忘れずに胸に抱えているからでもある。実際、1938年の絵の作者を探すのは年々困難になっている。今では作者のほとんどが90歳以上になっており、調査のタイムリミットが近づいてきている。
2019年、筆者はEva Friedrich Thomaさんのコレクションの中にあったいくつかの小学校にコンタクトを取っていた。数枚が纏まって確認されている小学校にメールや電話をしてみた。大抵、返事は無く、興味を持ってくれても実際に協力して一緒に何かを調べるところまでには行き着かなかった。しかしそのような中、京都府綾部市にある綾部小学校がこの調査に協力してくれることになった。
2019から2020の出来事
綾部小学校と連絡を取ったのは2019年10月頃だった。一連の話をすると綾部小学校の村上元良校長先生が興味を持ってくれ、作者探しの協力をしてくれたのだ。Eva Friedrich Thomaさんのコレクションからは綾部尋常高等小学校の絵が10枚発見された。全て小学校3年生の作品である。
2019年10月以降、村上校長先生は「綾部小学校支援協議会(略称=綾部小応援団)」から力を借りたり、作者達と同級生で綾部小学校近隣に住む米田比呂子さん(1929年生まれ、現在91歳)の持っていた当時の学生名簿を元に、調査を進めた。本件について、京都新聞(2019年11月14日)とあやべ市民新聞(2019年10月28日)が掲載してくれ、資料提供を呼びかけてくれた。そして唯一、作者の池田甫さんが兵庫県芦屋市に住んでいるということが確認できた。しかし、池田さん以外の作者とは連絡が取れなかったり、既に他界されていたことがわかった。
以上の関係から、2020年3月に綾部小学校で展覧会と講演会、そして池田さんへの取材を予定していたが、コロナウィルスの影響で小学校での集会は実施不可能となり、無期延期となっていた。規制が緩和され徐々に普段の生活へと戻ってきた頃、講演会や展覧会は難しくても、せめて村上校長先生にだけは日独伊親善図画の実物を見ていただきたいと思った。また、池田さんへの取材もご高齢ということで早めに実行したいと考えていた。2019年のファーストコンタクトから1年後の2020年10月、改めて村上先生へお願いをし、急遽翌月11月に綾部小学校へ訪問することを取り決めた。しかし、池田さんに無理のない範囲でお目にかかりたいと思っていた矢先、池田さんが他界されたことを告げられ、唯一の関係者への取材は叶わなかった。予定通り3月に小学校へ訪問できていればと、延期になったことが悔やまれた。
2019年(約1年前)からホワイトボードに書かれたままの村上校長先生のメモ書き。
綾部市について
綾部市は現在の人口は3000万人程。京都駅からは電車で1時間半ほどである。決して大きな町ではないが、自然が美しい緑豊かな場所だ。繊維工業で有名な「GUNZE」の発祥の地でもある。今回、観光は全くできなかったのが残念だった。綾部小学校の近隣には教会、そして大本という(明治25年(1892年)綾部で開教された民衆宗教の大本神苑が建っている。
綾部小学校について
明治5年(1872年)11月学制発布に伴い、綾部村大字綾部33番地に前身となる「小学博約館」創設された。明治35年(1901年)に綾部尋常高等小学校となる。日独伊親善図画(昭和13年、1938年)はその時期にあたる。その後、昭和15年(1940年)4月に綾部国民学校と改称。戦後、昭和22年(1947年)4月に現在の綾部町立綾部小学校と改称された。綾部小学校は昭和48年(1973年)1月に火災に遭い、校舎が全焼している。
現在の綾部小学校の児童数は566名、教職員数が59名(2018年時点)。綾部市で一番大きな小学校である。綾部小学校の目標は「博約」。論語である「博文約礼」を語源としている。本プロジェクトに協力してくれた村上元良校長先生は校長を6年間務めており、2019年度をもって任期が終わる予定だったが任期が延長された。2020年度に延長されたということもあって、今回のプロジェクトが実施できたと言っても過言ではないだろう。
11月17日に出会った人々
座談会の様子
村上校長先生の計らいで関係者向けの小さな展示と座談会を実施。
米田比呂子さん
米田さんは、今回発見された綾部小学校3年生の日独伊親善図画の作者と同級生である。当時の学生名簿をもっており、作者探しにご協力いただいた。米田さん自身は日独伊親善図画に覚えはなかったが、尋常小学校の時は楽しかったと話す。
出口洋介さん
出口さんは昨年、京都新聞の記事を見て村上校長先生に連絡を取った。家族の遺品整理から日独伊親善図画の賞状が出てきたのだ。この賞状は、叔父さんにあたる出口昭次郎さんのものである。昭次郎さんは武蔵野美術大学へ進学し、TBSで美術の仕事を長年されていたそうだ。絵が好きで、洋介さんへ富士山の絵を送る事もしばしばあったそうだ。
(前)同級生の平岡佳子さん、(後ろ左)林 多嘉子さん、(後ろ右)安達 一男さん。 林さんは日独伊親善図画の時代より若いが、変わらない綾部の街について詳しく教えてくれた。
森本正信さん、森本知子さん
綾部小学校の絵は10枚発見されたが、そのうちの2枚は森本博さんという児童によるものであった。博さんは既に他界されているが、その親族にあたる森本正信さん、知子さんが市内で薬局を営んでいるということで訪問した。叔父さんとの思い出は多くはないようだったが、博さんは音楽の道に進んでいたことがわかった。楽団でラッパの演奏者として活躍していた。博さんのお姉さん(正信さんの母親)は絵が好きだったようで、薬局にはお姉さんの絵が飾ってあった。しかし筆者が一番興味を持ったのは薬局に置いてある多数のグランドピアノ。これはどう見ても通常の薬局の佇まいではなかった。それもそのはず、森本正信さんは合唱団の指揮者をしていた経験もある音楽家でもあったのだ。画家の道ではないが、森本家に音楽や美術に関する才能があるということは間違い無いだろう。
18日
特別授業の様子
小学校6年生100名程に向けて日独伊親善図画について話をした。この日はオープンスクールのため、外部の方にもお越しいただいた。
左から筆者、村上元良校長先生、撮影アシスタントの鈴木萌夏。
綾部小学校の10枚の絵について
青葉の丘より
中出口全弘さん
池田甫さん
裏面には「このづぐわは、二人で心をあはせてかいたのです」との文章があり、二人で描いていたことがわかる。前述した通り、池田甫さんとはコンタクトが取れていた。取材をする予定だったが、秋頃に亡くなられた。その後、遺品の中から村上校長先生への感謝を書いた手紙が見つかり、娘さんを通して受け取ることとなった。
林田さん(寫)
飯田 みつよさん
丹陽教会
教会
田所 美知子さん
戦後、ミス綾部に選ばれた方だそうだ。
教会(寫)
四方 茂さん
学校降りたところすぐにある教会「丹陽教会」と考えられる。丹陽教会は1924年に建てられた教会だ。
森本博さんの作品
水無月さん(思)
森本博さん
この絵は「あやべ水無月まつり」を描いたものとみられる。あやべ水無月まつりは綾部市で毎年7月第4土曜日に、市街地中心部から由良川に至るまでの一帯で開催されている。明治末期、先祖の供養に川へ灯篭を流したのが始まりだ。現在も続いており、灯篭約1万個が由良川に流され、花火が打ち上げられる。80年前の子供達にとっても、今の子供達にとっても、夏の風物詩だったことがわかる。
さんぱつ屋さん(思)
森本博さん
同じく「水無月さん(思)」を描いた森本博さんの絵。飯田みつよさんのお家のお店が散髪屋さんだったことから、もしかしたら飯田みつよさんの散髪屋さんを描いたものと推察される。
中山良𣈱さんの作品
味方橋(寫)
中山良𣈱
国の登録有形文化財でもある綾部大橋(味方橋)。綾部大橋ができたのは1929年。橋の長さは210m。京都府綾部市並松町から味方町を結んでいる。当時味方橋と言われていたのもこのためだろうか。この絵について、面白いエピソードがある。この橋の色を巡って議論がされていたそうだ。住民の多くが青色であると思っていたが、実際は茶色だったのではないかという事実が浮上した。その後、新聞で綾部大橋が茶色だったという記事が発見された。また、この絵を見ても分かる通り、少なくとも1938年時点では茶色だったことがわかるため、現在の色は変更されたものだったことがわかった。
店屋(思)
中山良𣈱
「とよしま」さんという、酒とタバコを一緒に販売していたお店との意見が多い。お味噌もお醤油もなんでも置いてあるような大きなお店だったようだ。林さんはしょっちゅうお店の前を通っていた。
店屋
高山健三
こちらは「みやけ」さんという八百屋との意見が多かった。一つ前の酒屋さん(中山良𣈱さんの作品)の前に八百屋があったのでそこを描いた絵の可能性が高い。
みせ屋(思)
田辺典子さん(みちこ)
林さん曰く、雑貨屋さんとおもちゃ屋さんが並んでいる通りがあったそうだ。それを描いたものと思われるが、左側の道がわからないとのこと。
綾部小学校の美術の取り組み
昭和13年、当時小学校3年生ということで、学校には日記といいますか、記録を残していますので、当時のものが無いかなということで、調べ始めました。その中で、昭和13年のものを調べました。日独伊親善図画を出したかどうかということを具体的に書いたものはなかったんですけど、きっと何か図工とか絵を描くことに力を入れていたのではないかという仮説の元に、昭和9年まで遡って当時の記録を調べていくと、図工の教育に力を入れている足跡として、今で言う指導主事さん(指導的な役割の人)を学校に呼んで、色々と指導を受けていたという経過や、校内研(学校の中の研究会)で、図工について校内みんなで勉強したという記録がありました。仮説ですけども、そういう経過の中で当時の子供たちに対して、図工や絵を描くことに対しての指導が熱心に行われていたのではないかという推察することができるような資料を見つけることができました。ー村上校長先生より
村上校長先生は綾部小学校で代々伝わる沿革史を参考にした。詳しい図工の授業の取り組みや、日独伊親善図画に関係する記載は見当たらなかったが、戦前から戦後の授業の移り変わりがわかる貴重な資料である。この沿革史は引き続き筆者も調べてみたいと思っている。
子供達へのインタビュー
最後に、子供達に日独伊親善図画を見た感想を聞いてみたのでここに紹介する。
どの時代も自然で生き生きした絵、やっぱりそれは変わらないので、昔の大大大先輩も自然に寄り添った絵を描いているので、どの時代も一緒だなと思いました。
一つの絵で、その時代の時代背景だったりとか「こんなこと考えていたんだな」というのがわかるのは、すごくその人の感情がこもっている証拠だと思うし、その人自身も絵が上手い証拠だと思うから、すごい羨ましいと思うし、何よりも自分もそんな絵を描けたらいいなと思いました。
絵具とかは無かったけど、80年前の生活が描かれていて、とてもすごいと思いました。
僕たちが使っている絵具ではなく、クレパスなどで描いてあって、色が濃いから、細かいところまで表現できないところもあったかもしれないけど、しようとしている工夫とかを感じたのですごいと思いました。
戦争があった頃と今では、結構違うと思うけど、絵とかで表現されているものとかを見ると、ほとんど変わっていないなと思いました。
参考リンク: 綾部小学校
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